円城塔『ムーンシャイン』


書誌情報


書評

本書は,2006年から2024年までに発表された短篇4作を収録した短編集であり,円城塔のSFの単行本としては『文字渦』以来6年ぶりの新刊である.あとがきで円城塔本人が本書を“短編集としての円城塔”であると書いている通り,本書は時間を隔てた作品を時系列順に並べることで,円城塔の思索と挑戦の混沌とした足跡を体現する.

「パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語」は,2006年の群像新人文学賞の落選作であり,創元SF文庫の年刊SF傑作選2007年版(『虚構機関』)に収録され世に出た.曽祖父の残した八つの“■”にそれぞれ物語を見出す,という物語であり,見出された八つの物語は独立であるのだがしばしば互いに混線し,その真の様相というものは全く知れない.作中で提示される,物理法則に反する生物,感情を操作する方程式,といったアイデアも魅力的だ.他にも,文字列の対角化,テクストと読者の相互作用によって記述される読書体験,という2020年代の作品に登場する概念の萌芽が認められるなど,最初期からの関心の一貫性も見える.

「ムーンシャイン」は,前述の年刊SF傑作選2008年版(『超弦領域』)に書き下ろしとして収録された異色の発表経緯をもつ.異常に強大な計算能力を有する少女を巡る特務機関との戦闘,ボーイ・ミーツ・ガール,そして少女の旅立ちが描かれる.本作はムーンシャイン理論という数学の理論をモチーフとしているが,その詳細を理解している必要はない.むしろ,そのような難しい数理科学的な概念が衒学的に語られる一方,抒情的な情景が問答無用に脳内に流れ込んでくるという不和が織りなす,説明出来ない圧倒的な情感を味わうことに注力したい.

先述の二作には,他の初期作品群と同様に,冒頭に置かれた印象的な一文,数理科学に基づく魅力的なSFアイデアの提示,そこから導出される自明だが驚くべき真理,という特徴的な構成が見られる.しかしながら,2017年の「遍歴エルゴディック」ではこれらの特徴が完全に失われている.連想によるアイデアの奔流もまた見られなくなり,“転換の途上にある円城塔”が明確に提示される.「遍歴」は,物理学の一分野,統計力学におけるエルゴード仮説を教義に取り込んだオープンソース宗教についての物語である.十分長い時間における時間平均と,位相平均とが一致する,というエルゴード仮説の主張をなぞるように物語は構成されており,長い時間をかけて周囲を巡りながら,教団に関する様々な視点が提供される.

「ローラのオリジナル」は2023年に発表された生成AIを題材とする作品であり,大きな改稿を経て収録されている.強大な画像生成AIを密かに作成した人物と,なぜか流出して現実世界を闊歩している生成された画像の人物,そして流出によって不可逆に変容した社会を描く.本作には,初期作品群に頻出するギャグが全く見られず,取り返しのつかない状況の中で語り手が苦しみ抜く様が描かれる.余裕がなくなっている,と言ってもいいだろう.“苦闘する円城塔”がここには見られる.

本書を通じて,円城塔は迷走する.しかし,その迷走こそ,物語を可能にする原理を精査し,物語を拡張しようという円城塔の不断の仕事の足跡である.


書評メタデータ

本稿は《SFマガジン》2024年10月号(2024.8)に掲載された書評の再録である.


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