あるいは出汁でいっぱいの海


僕の住んでいる町は,こんぶやわかめ,かき,ほたてといった海産物の養殖が盛んな町だった.僕の父も養殖をしていて,僕も日頃から一緒に船に乗ってよく手伝いをしていた.手伝いを始めたころは,この仕事があまり好きじゃなかった.仕事と言ってもお客さんと直接関わりがあるわけじゃなく,毎日喋りもしないこんぶの世話をするだけ.しかも養殖をしているその海は,テレビで見た南の海のようには透明じゃなくて,濁っている.こんな海でこんなことしたくないな,と呟いた僕に,父は大切なことを教えてくれた.

濁っていることこそが,この海が豊かな証拠なんだ,と.森から川を通って流れてきた栄養が,海に入って濁りという形で目に見えるようになる.この自然の恵みである濁りが,養殖している海産物として自分たちの生活の糧になる.このことを聞いてから,心もちが随分変わったと思う.一見汚く見えても,海の濁りは実は自然の恵みの一部だったということ.養殖しているこんぶは自分たちが育てているんじゃなくて,自然に育ててもらっているんだということ.そして,この町は自然の恵みに囲まれた町だということ.あまり好きじゃなかったこの海や,養殖,そしてこの町がだんだんと好きになっていった.まだ養殖そのものの手伝いはあまりしたことがなかったけど,船と一緒に揺れる父の背中を見ながら,ぼんやりと将来は養殖の仕事に携わりたいと思うようにもなった.

港に面した湾にはいつも多くの船がいて,同じように養殖の仕事をしていた.湾内の波はおだやかで,海鳥が海中の魚を狙って飛び交っていた.港では,海鳥たちが忙しく鳴いている下で,猫が海風に吹かれて気持ちよさそうに昼寝をしている.この街は,ゆったりとした時間の流れる,のどかな町だった.豊かな自然の恵みに囲まれたこの町が,そしてこの海が,僕は好きだった.

この光景が急変したのは,一週間ほど前のことだった.真夜中に大きな揺れと音を感じて目を覚ましたときには,何が起こっているのか分からなかった.同じく揺れと音とで飛び起きてきた両親と一緒に観たテレビも,起こった事実をそのまま伝えているだけだった.突然の出来事ですっかり冷静さを失って,取るものも取らず,着の身着のままで避難した.避難所に着いてから,大人たちは大慌てで色々と何かしていたようだったが,僕は疲れていたのかすぐ寝てしまった.

夜が明けると,事の状況がようやく分かりはじめた.どうやら,湾内に海底火山があって,その火山活動があったらしいということだった.真夜中のことで幸いにもけが人はいなかったものの,湾の光景はまるっきり変わっていた.湾の入り口が完全にふさがれ,湾の中の海水は外の海水と切り離されてしまった.その海水は海底の火山に熱されて,ぐらぐらと煮えていた.

熱湯となり湯気を立てている海に船を出すことは出来ず,出来ることと言ったら立ち入りを禁止してただただ事の行く末を見守ることだけだった.特産の養殖物は全滅して,誰も解決を見出すことが出来ず,残酷な自然に対する行き場のない怒りを抱えるだけだった.

数日経って,大きな噴火も有毒ガスも確認されなかったということで,家に帰れることになった.しかし,帰ったところで,自分たちに出来ることは何もなかった.父も出来ることは何もなく,母と一緒に家の整理をするか,漁協に出かけて無駄な時間をただ過ごすだけだった.

ぐらぐらと煮えたつ海を前にして,大人たちの怒りはふつふつと沸きたった.しかし普段自然の恵みを分けてもらう形で養殖業を営んでいた分,自然に当たることも出来ず,この怒りは行き場がないようだった.怒りと無力感とで,町は次第に殺伐としていった.色々と援助の見込みはあったものの,所詮当座のものであって,将来仕事が出来るかどうかも分からない今の状況では,焼け石に水だった.

ほどなく休校だった学校も再開したけど,学校の友人たちも,周りの大人たちの殺伐とした雰囲気に飲まれているようだった.久しぶりに友人と会い,普段の生活に戻れたようで一時は嬉しかった.でも,どこかぎこちなさと距離を感じた.その根底には,疲れと不安,そして海への行き場のない怒りが感じられた.

殺伐とした雰囲気の中では,勉強も遊びも全く手につかなかった.学校も家もとにかく居心地が悪くて逃げ出したかった.その逃げ出した先が,海だった.放課後は荷物も置かずに,学校から海に直行した.人に見つからないように突貫工事で出来上がった進入禁止の柵を越え,独り温かい潮風に当たりながら,夕陽を背景に煮えたつ海をずっと見ているようになった.

周りの人は海に怒りを抱いていたけれど,僕はそうでもなかった.何があっても,僕はこの海が好きだった.一度好きになったこの海を裏切ることなんか出来なかった.どんな形であろうとも,この海は自然の恵みの証なんだ.それでも,今僕がこの状況に対して出来ることは何もない.僕がこの海に対して出来ることは,ずっとそばにいて,見ていることだけだった.

今日もまた,人目を避けて柵を越え,海のそばまでやってきた.海は変わらずぐらぐらと煮たっている.荷物を背にして腰を下ろし,ぼんやりと海を眺めているときに,ふと気がついた.今日の海はいままでとは一味違う.夕陽の沈みゆく海は,以前よりも澄んでいた.不意にやってきた海風が,僕の前髪を巻き上げながら,なんとも言えない好い香りを運んできた.

いつの間にか垂れたよだれが,胸元にしみをつくっていた.

僕は夕陽に映える澄んだ琥珀色の海を,ずっと見つめていた.


小説メタデータ


小説一覧に戻る

トップに戻る