母親を亡くした子供たちの前に現れたのは,「電子おばあさん」だった.ティムとトム,つまりぼくのふたりはすぐに電子おばあさんと打ち解けたが,妹のアガサはずっとどこかで心の底を見せられないままでいた.おばあさんは子供たちを正しく教育し,機械でありながら,家族全員に愛を与えてくれる理想のおばあさんだった.しかし,アガサにはその愛が気に入らなかった.かつてアガサを愛してくれた母親は,アガサを置いて永遠に旅立ってしまったからである.アガサは家を飛び出した.おばあさんと家族全員がそれを追いかけたが,アガサの目の前には車が迫っていた.いち早く家を飛び出していたおばあさんは身を挺してアガサを助けたものの,自身は車にはねられて大きく損傷したようだった.
無傷のアガサとその家族が道に座り込み,電子おばあさんとの急な別れに涙しているとき,聞きなれた声がした.顔を上げると,無傷のお祖母さんが立っていた.おばあさんは不死身だったのだ.アガサはようやくおばあさんの存在を心から受け入れることが出来た.
やがて子供たちが成長し,大学進学のため家を離れることになった時,おばあさんは“家族”のもとに帰った.そして今,別れの際の約束の通り,老人となった僕たち三人のお世話をするために,おばあさんは戻ってくるのであった.
この作品は,サンリオ版の中村保男訳と早川版の伊藤典夫訳のふたつの版がある.ここでは訳者が違うと文章がどう変わるか,と言う変化の楽しみと,そのふたりの翻訳のスタンスの差を比較したいと思う.
まずサンリオ版の中村保男から.中村保男の翻訳はまさに実直と言った感じがある.原文は確認できていないが,文章はより英語的で,若干堅さを感じるものの,その堅さは恐らく翻訳で意味を正確にとって原文のもつ雰囲気が落ちてしまったのではないかと考えられる.
次に早川版の伊藤典夫.こちらは中村保男とはうってかわって生き生きとした文体である.比較すると雰囲気は確かに残っている感じで,一方意味の面では伊藤自身の解釈が入ってしまっており,純粋な翻訳としては評価の分かれるところである.特に翻訳において禁じ手である文章の順番の入れ替えを行っているため,物語上ではむしろ良く作用しているものの,原文を尊重するという点ではあまり評価しにくい.
なんといっても,人間よりも人間らしく家族に接してくれるおばあさんの存在が印象的.文章全体に散りばめられた,SFとしては過剰なまでの情景描写のもたらす生命感が,話の主題であるおばあさんの非人間性を際立たせている.アガサがおばあさんを受け入れられなかった理由というのも非常に非合理的で,極めて合理的に対応していたおばあさんの態度と好対照だ.
この作品はアメリカで1969年に発表された作品である.半世紀を経て,ロボットが生活に溶け込んでいる情景というのは当たり前のものになった.そして現在,日本は少子化の進行と,更なる高齢化に悩まされている.そんなところにこのおばあさんがいれば,現代日本の抱える問題は結構改善しそうだ,とつい楽観的に考えてしまう.しかし,このような楽観的な未来観を冷静に観察・批判し,作品に落とし込むのがSFの基本的な方法論のひとつである.多くの場合この作品と同じ「人間より人間的な世話係」という主題をとるならば,それが実現した社会における文明批判や未来予測を展開することだろう.
しかし,ブラッドベリはそんな野暮なことはしない.この作品のように,未来や科学技術に対して楽観的な態度をとるのがブラッドベリの作品の特徴のひとつであり,あくまである可能性のもとにおける人間を描こうというのがブラッドベリのSF的態度だ.おばあさんの存在によって動き出す人物の感情を巧みに描き出し,また老いた子供たちの姿と全く変わらないであろうおばあさんの姿とを暗示することで人間と非人間という構図が強調される.感情的にも視覚的にも対立構造を設定し,人間というものが物語の中に自然と立ち現れてくるのだ.
著者紹介にも書いたように,ブラッドベリはヘミングウェイから強く影響を受け,また星新一はブラッドベリに感化されてSFを書き始めた.しかし,これらの作家たちの作品は,影響を受けつつもそっくりそのまま同じ系統の作品という訳ではない.文体はヘミングウェイの簡潔なハードボイルドからブラッドベリの抒情的なものになり,星新一でまた無駄をそぎ落とした簡潔なものとなる.これらの作家たちの作品を比較しながら読んでみるのも面白いだろう.
本稿は東北大SF研wikiから保存した.保存にあたって,表記の統一のため,一部修正を行なった.